備忘録的な感想部屋

オタクが舞台やゲームの感想を壁打ちします

刀ミュ 静かの海のパライソ2021を観て①

はじめまして。

デジタルタトゥーになりかねんな……という恥じらいから及び腰だったのですが、ついにはじめてしまった。感想を書きためる習慣は元々あったので、ずっとブログに興味はありました。いつまで続くか分かりませんが、パライソの感想は色々書くと思うので、良かったら読んでもらえると嬉しいです。

 

 

本題に入る前に、注意書き。

ネタバレしまくりです。演出、台詞、歌詞、その他あらゆるものに触れる可能性があります。

・私はキャラクター同士に恋愛感情があるという解釈は一切したことが無いですが、親愛や友愛を見出そうとするオタクなので、苦手な方は避けてください。(特に大倶利伽羅鶴丸は元々好きなのでバイアスかかってると思う)

・上記の通り私の言う「〇〇は××が好きなんだなあと思った」とか「△△を大事にしている」とかはBL的意図は一切ありませんので、そのつもりで読んでいただけるとありがたいです。これすらBLに見えるから無理、という方は自衛ブラバしましょう。

・否定的な意見を一切書かないということはないです。好きだから全肯定、もないです。

あくまで「感想」なので、これが正しいとかそういう話では無いです。個人の妄言です。

如何せん人の目に触れるところに文章を載せるのが久しぶりなので、どのぐらい注意書きすれば…? と手探りなんですが、無理だと思った瞬間にブラバして忘れてください、というスタンスでいきます。あとマジで長いです。

 

あの……パライソ、すごくない?

 

私はトライアルの頃から双騎・青江単騎・パライソ初演以外は現地で観ている(一回しか入れなかったやつもある)のですが、パライソが一番好きな作品になってしまいました。

アンサンブルさんを贅沢に使った演出がすごいとか、曲や衣装が好みだとか、そういうのも勿論あります。ですが1番大きな理由は、「刀剣男士同士の価値観の違い」「刀剣男士同士の関わり方・お互いに対する想い」という部分がかなり丁寧に描かれていると感じたことです。

 

私が刀剣乱舞の.5に求めているのは刀剣男士の話であって、歴史上の人物の物語を見に行きたい訳では無いんですよね。刀ミュは作品によって歴史と刀剣男士どちらをよりフィーチャーしているかという割合がかなり違うと感じています。

例えば同じ新撰組関連の話でも、幕天初演は元主を見て何を思うか? 苦悩する仲間にどう関わっていくのか? という男士主軸の成長物語である一方、むすはじは元主が生きた時代=戦の道具としての刀が終わりゆく時代を描くこと、その上で兼さん単体が主とどうしたいのか、というのが大半を占めている気が。こればっかりは好みの問題なので仕方ないですが、私は前者が好きだしパライソは今までで一番前者だと感じたよということです。(※私は陸奥守や巴に詳しくないので言外に示唆されていることまでは読み取れないというのもかなりあるかも)

 

◇パライソが描いていた男士の姿への私の印象はこんな感じ。(※ペンラ順)

鶴丸:誰からも頼りにされる古株で、誰にでも気さくだが誰にも本心を明かさない(→からの、三日月のやり方に対して疑問を抱き、相当葛藤していたことが明かされる)

倶利伽羅鶴丸を支えることに徹する一方、それは盲目なのではなく、三百年で覚えた失う痛みや人の命を奪うことの重さ・意味を抱えた上での行動だと示す(しかも鶴丸以外の仲間も気遣う)

浦島:誰かに寄り添い、誰かと同じ目線で物事を見て、感じて、考えて、だからこそ苦悩する。マジで完全に善の側にいるタイプ。歴代男士の中で多分一番人に近い。自分より優れた人の言うことを盲目的に信じてしまう→迷ったとしても自分自身が考え続けることも使命、という成長

日向:浦島との対比なのか「目的を上手く果たすことが第一、手段は選ばない」を徹底し、人には寄り添わず浦島に寄り添おうとした

豊前:松井と一緒に松井の「向き合わなければならないこと」を越えようとする。一方で、松井だけに優しく、松井だけに心をかけているわけではなく、結構平等なタイプ。島原の乱の現実に人間らしい反応を見せた男士でもある。

松井キリシタンを切った刀、というプログラムが強く、その記憶に囚われて迷い、苦しみながらももがく。逃げない道を選んだが……。

 

曲数や出番に差があるのは事実ですが、ちゃんとそれぞれに(メタ的な見方で)役割が与えられていたと思います。

日向に関しては「じゃ、なんで日向はそういう行動原理なの?」という部分は今後描くつもりなのかなと。パライソの物語の中では浦島や松井とは違う、という姿こそが求められていたのであって、彼自身の話は蛇足になってしまいますしね。でも日向って関ケ原以前は三成の刀だったし、キリシタンに思うところありそうなのにな……*1とはちょっと思いました。

豊前はあれでもかなりどういう考えの持ち主なのか描かれてたと感じます。サポートキャラに見せかけてスタンスは明示してた。一貫して明るいから掘り下げがなかったと感じちゃうのかもしれん。

 

 

倶利伽羅鶴丸の関係性

今回は大倶利伽羅鶴丸の話をしたいと思います。以降この二人のコンビを便宜上伊達、と括らせてください。

鶴丸のふるまいについて

私、~5回目くらいまでで、観劇時に鶴丸から受ける印象がだ〜いぶ変わっていて、

・1回目:あ〜鶴丸は三日月のそういう所が嫌だったのか、えもさくに塩なのはそういうことか、という納得と内容のキツさで鶴丸自身を深く考えるまでに至らず

・2回目:浦島や松井のシーンを見て辛くなって身勝手にも鶴丸を責めたくなるのと、鶴丸のシーンを見て鶴丸ごめん違うお前に苛立つのは間違いだってわかってるんや…と辛くなるのを延々と繰り返してました。人間(私)は勝手な生き物なので感情に振り回されるよ……。本当にループしてた。二回目の一部終了後の感想としては、鶴丸も辛いのはわかるけど松井に対して言葉が足りなすぎるし浦島のことはなんで連れてきた?」でした。

・3・4四回目:段々なんか鶴丸がめっちゃ辛くなってくる。憎まれ役になりたかったのに松井は本当は鶴丸が悪い訳でもないと分かっちゃってたし、浦島に至っては全く責めてこないし、悪役になりきれてなくて逆に辛いやつでは?(あたられたほうが楽な時もあるよね……)、あと台詞を聞けば聞くほど鶴丸がド正論マシーンすぎて(パライソのメッセージ性発信はほぼほぼ鶴丸に委ねられているため)島原の乱・刀剣男士が直面している遡行して歴史を守るという現状・戦全般・命の扱い全般が抱える問題性をこんなに正しく理解してこんなに苦悩してるんじゃんというのが明確に見えてきてきつくなってくる。大学で政治系学部にいるのでパライソ見るとめっちゃ現代社会学とか政治哲学で勉強したことが頭の中よぎります。

・5回目以降:なあ、伊達………………………良い……………………………………(急激に下がる知能指数)(辛さを緩和しようと伊達に注目し始める)

 

鶴丸の編成基準の話

・俺:やれる 日向:やれる 浦島:たぶんできないが、受動的な態度を変え自分で考えるようになってほしい 松井:トラウマ克服必須。連れて行かずにあとで島原へ出陣したと聞いてもこじれるだろうから、「じゃあ連れてくか」理論。あとは単純に矛盾を生まないように当時の記憶持ちが欲しい。 豊前:松井のメンケアさせたい  かな、と推測してます。

鶴丸がなんで大倶利伽羅を連れてきたかというのは結構人によって受け取り方違って面白いですよね。

・私はツーカーで通じる上に実力のあるやつが1人いてくれると何かとやりやすい ②自分に何かあったとしても任務をやり遂げてくれるという確信 の二つが鶴丸の中にあった理由だろうなと思います。要は信頼。「簡単な任務だ」とか言ってましたが鶴丸自身(松井を連れていくと決めたことでいっそう)「物理的難易度は低いが、精神的負担は大きく多くの男士にとっては難しい任務」と理解していたのではないでしょうか。

・自分が精神的に支えて欲しかったから、という発想は鶴丸にはなさそう。だからこそ思いがけず支えられてしまった上にそれが心地よくて、「適わねえなぁ、伽羅坊には」という自虐的な感想が飛び出てきた感じ。

鶴丸は自分のメンタルを過大評価してる節があるというか、確かに強い方なんですけど、本丸内で「強くて頼りになる」のレッテルを貼られている以上弱音を吐ける状況にないですよね。そのレッテルは求められている姿そのものなので。

で、多分鶴丸はかなり自立していて自分一人で大抵なんとかなるし、悲しくても辛くてもちゃんと動けるし、問題を本質的に理解して考えて責任を負って、って手順を踏める、ようは上手くやれるし大丈夫なんですけど、その1回できることを10回、100回、1000回我慢できたとして、じゃあ1001回目は? 10000回目は? となると、どんなに強くても疲れちゃうし、あ、ダメかも、ってなる瞬間は訪れる。元は刀といえ人の身を得て心を得て、弱さも感情もあるのを抑え込んでるだけだから。なまじ本当に強いせいで鶴丸はその辺の加減をあんまり理解出来てなさそう。自分の心身の強さへの矜持もある。

実力もあって精神的にも強くて、誰の支えがなくとも上手く出来るとしても、支えがない方が絶対に良いなんてことはなくない?

少なくとも、皆も自分自身も鶴丸国永に当たり前に「強さ」を求めてくる環境下で、自分を理解してくれて、時に弱音を吐いても責めたり鼓舞したりせずに寄り添ってくれて、少し休んでまた立ち上がらせてくれる、そういう人が一人いてくれたら結構マシな瞬間があると思うんですよ。弱音を吐かなくても、そういう場所があるって思えてるだけで息のしやすさは違う。だからたとえ支えてくれる人の有無で任務の結果が変わらなかったとしても、その間鶴丸がどんな気持ちですごしたか、は変わるかもしれないじゃないですか。いい塩梅で干渉して支えるのってめっちゃ難しい。誰でもいいわけじゃないから、彼の場合大倶利伽羅がいて良かったねと思うわけです。

・これは別に鶴丸かわいそう! みんなひどい! て意見ではなく、この強者とそれに無意識的に頼りまくる周囲、という構造はミュの鶴丸自身が望んで受け入れている形でもある。

・弱者に配慮することは大切ですが、じゃあ強い人を強いからと言って放っておいていいわけがないよね~……パライソでは幕天の「強い人は悲しい思いをたくさんしてきたから強い」という話が浦島によって引用されてたけど、どっちかというと鶴丸はさびしい人という方がしっくりくる気がします。飄々としてて気さくで明るくて、誰とでも打ち解けるけど一線を引いていてつけいる隙がない、なんか鶴丸のイメージは一貫してそんな感じ。

・例えば序盤のマイネームイズ四郎! の時の様子を思い出してほしいんですが、地獄の覚悟をしながら笑顔で踊って楽しげな任務に見せる鶴丸、悪い男だし頭が回りすぎるし、彼の性格を考えた上で見ていると、なんかなあ…とやるせなくなる。鶴丸は「自分がどう見えているか」を客観的に考えることと、その見え方をコントロールするのが上手いタイプなんじゃないかなと思うので。

 

倶利伽羅は何を思っていたか

・そして大倶利伽羅鶴丸の思っている1万倍は鶴丸のこと心配してるんだよな………………………………………………………………………………。

勿論鶴丸も、ああ大倶利伽羅は心配してくれるのだなあと嬉しく思っているでしょうけど、ゼッテーワカッテネーナテメ〜〜……………。しかも大倶利伽羅鶴丸の重荷になりたいわけじゃないので別に必要以上に心配している素振りは見せない(なぜなら心配しまくると今度は鶴丸が大倶利伽羅を心配し、心配かけまいとマジで誰にも本心を見せてくれなくなる)から、一生伝わらないやつでは? 「お前は崩れるな」と、それを受けた鶴丸の様子を見てそんな風に思いました。

倶利伽羅から見ても、鶴丸の望む支えは「弱くあることを許して守ってくれること」ではなく「強くあり続けるために、たまに休ませてくれること」て感じなんだろうな。君たちすごい関係築いてるね。察し力高くないか? だからこそいい距離感でいられるんだろうな。

倶利伽羅ソロが本当にいい仕事をしていて、何…………?オタク特有の言語喪失……。私が今書いてるこの記事、この曲なかったら深読み妄言幻覚女のそれ過ぎるんですけど、いまもそうだけども、倶利伽羅が今まででいちばん激しく感情を顕にしたのがこの曲っていう。

上で書きましたが、この曲の何がいいって、鶴丸を支えることに徹する覚悟を歌っているのも一大事だけど、それは盲目なのではなく、三百年で覚えた失う痛みや人の命を奪うことの重さ・意味を抱えた上での行動だと示されているところ。

見えぬふりは出来ぬ 傷はある

振り下ろす 一太刀 その重さ 何ではかる

ここ、「傷」でぎゅっと胸を押さえた後、「何ではかる」では目を細めて切っ先を見つめ、すごく切ない顔をするんです。大倶利伽羅の価値観からいって島原の乱という歴史を守るために「キリシタンを3万7000人も殺すために集めて実際見殺しにする」というのはかなり堪える任務だと思うんですよね。吾平1人を失って、あんなに顔を歪めてだから馴れ合いたくなかったんだ、と震えた大倶利伽羅が、命の重さが分からんわけがないし良心の呵責がないわけが無いずっと痛いくせに背負う覚悟があるから大倶利伽羅は強いし迷わない、納得感のある描写でした。これなかったら大倶利伽羅理由もなく鶴丸に対して盲目すぎん? って微妙な顔してた気がする。

・大倶利伽羅の「祈りの言葉も捧げる花も持たないから、せめてお前の力になるために強くなる」ってマジで何? 脳がバグる、倶利伽羅は自分が不器用だと自覚してるんだな、しかも歯がゆく思ってるのかなと考えるとちょっといじらしいというか愛おしくないですか。でもパライソを見て言葉の少ない男士ではあるけど言葉の足りない男士ではない気がした。成長。

・あとこのシーン、スモークも相まって静謐な雰囲気があっていい。牧島くん元々そうだけどマジで何公演見ても音外さないし歌上手い〜〜〜、優しくて穏やかな歌い方と、切なさを滲ませるのと、持て余した感情をぶつけるように声を張り上げて歌うのと、全部めちゃくちゃ良くて染みます。マジで歌うま表現素晴らし大臣すぎ。声も好き。ミュの大倶利伽羅、私たちの想像の500倍繊細で500倍優しい性格してる。

・このシーンに限った話ではないんですが、大倶利伽羅の殺陣、めっちゃ上手くなってるし腰が入ってて緩急しっかりあって重みがあるので、命の重みを常に考えている大倶利伽羅、というキャラクター性にかなり説得力を持たせていると思いました。すげえ。

 

ミュ解釈における大倶利伽羅鶴丸の距離感

・ゲーム公式では明言されていませんが、三百年再演を見る限り、ミュ解釈だと倶利伽羅が他者を遠ざける理由は「親しくなって心を許して愛着を持っても、失う時は一瞬だし、いつかは失うものだし、それがあまりにも辛いから、だったら最初から無い方がいい」という感じなのかな〜、と思っています。元々もの静かなタチではありそうだけど。浦島と人間の兄弟を助けるのも大倶利伽羅だし、そのあとどうせ後でみんな死ぬのだと分かっていてもキリシタンを助けてしまうし、大倶利伽羅マジで、その優しい心がありながら覚悟を持って戦い続けられるの、強いひと(人ではないけど)過ぎるよ……。というか、三百年で強くなったし鶴丸ぐらい大事な人がいればそのためにも強くなれる、が正しいのかもしれん。

・なんかこの辺を加味して観ていると、大倶利伽羅顔にも口にも出さないけど、鶴丸を失うんじゃないかってめっっっっちゃ怖かったのでは? とオタク・アイでは感じてしまった。マジでずっと鶴丸に張り付いてるし、強いって信頼してても怖いもんは怖い鶴丸が近づいてきたのを強くは拒否らないスタンスだった大倶利伽羅が、パライソでは鶴丸あるところに大倶利伽羅あり、と言っても過言ではないくらい付きっきりだったことを思うと、大倶利伽羅の心配がどれほどのものかよく分かる気がします。

・※めっちゃ妄言※マイネームイズ四郎!のくだりで、「伽羅坊は…無理そうだな!」と言われた大倶利伽羅、からかわれてムスッとした顔をしてると最初は思ったけど、鶴丸が何をしようとしてるのか理解して色々言いたいことはあるし本気か? 何のつもりだ? って問いつめたいけど(歴史を知っていると鶴丸が辛いことやろうとしてるんは察せるから)、今回は支えると決めたしここで口出しをしたら嘘をつくのが上手くない自分は皆を誤魔化せず鶴丸の邪魔になると思って我慢してる顔なのかな…と思いました(早口キモオタク)

そのあとの「止めても無駄だ。…やつは本気だ」はそういうことじゃないかなと。無駄じゃないなら止めるんですかね。

・あと、これは私が救われた気持ちになりたいだけの完全な蛇足なんですけど。

倶利伽羅、別に全方位に同じだけ優しくするタイプではないじゃないですか。ゲーム見ていても完全に「身内(長く一緒にいた刀剣)とそれ以外」の態度の違いがある。そして厳密には身内の括りの中でも微妙な差異はある。

ミュでも、大倶利伽羅って話しかけられただけで「馴れ合うつもりは無い」でガン無視したり、同じ本丸で暮らしてるのに「一度も名前を呼ばれたことがない」「僕のことが見えてないんだと思ってた」とか言われちゃったりするくらいには他者を遠ざけてるんですが、こいつ鶴丸とは結構普通に話すんですよね鶴丸が絡みに行ったらつれない態度とはいえくだらない話でも付き合うは付き合うし、つっこむし。

しかも支えようってあんな覚悟まで決めて、「なぜ憎まれ役を演じる」という問いかけも、言外に鶴丸がそういうやつではないと知っているから、誤解されて欲しくない」気持ちが滲んでいる気がして、なんか〜……なんか、全然上手く言えないですけど。それって、ただ200年同じ主の元にあったから、っていう縁故だけじゃなくて、人の身を得てから鶴丸が大倶利伽羅にしてきたことの証明じゃないのって思ったんです。多分鶴丸は相当大倶利伽羅にちょっかいをかけて、優しくもしたし、一緒にいろんなことをしようと誘ったし、どんなにすげなく断られても「え〜」とか言いつつ怒ったり凹んだりしなかっただろうし(ミュの鶴丸は最早断られる所まで楽しんでる節がある)、そういう、鶴丸が渡してきた沢山の思いを大倶利伽羅がちゃんと受け取っていたからこそ、大倶利伽羅は信頼や優しさを鶴丸に返してるんじゃないの、って。

倶利伽羅の馴れ合うつもりは無いムーヴが上に書いたような意図なら、顕現してからしばらくは鶴丸のように面識のある刀のことは殊更遠ざけようと頑張ったのではと推測しちゃうので、鶴丸根気強く構ったんだろうな……大倶利伽羅根負けしたんやな……になりました。鶴丸が思っている以上に、ちゃんと大倶利伽羅に伝わっていたのだと思います。2人とも不器用だね。お互い踏み込まない性格だけど、優しい関わり方をしてきたんだな、本当に大切に思ってるんだな、とちょっと救われた気持ちになりました。大倶利伽羅はちゃんと鶴丸そのものを見てるし、受け入れてるし、大切に思ってるよ。そして鶴丸がどんな馬鹿やっても手を離さないでいてくれそうだから、なんかもう、月の海でもどこでも行ってきてくれや………………………になった。カテコの大倶利伽羅鶴丸引っ張り上げるとこ見て大声出して頭抱えそうになったの私だけじゃないっしょ。(無論いつも微動だにしていません。)長期休暇あげたい。

・改めて、大倶利伽羅は「一人でいい」って遠ざけるくせに心地よい距離感でこられたら許してしまったり、いざその人が傷つきそうになったら我慢出来ずに手を伸ばしたり、めっちゃ人間くさい(褒めてる)タイプだよね……

 

苦悩を吐き出せた鶴丸

・パライソを象徴するシーンのひとつとして、同じ海を前にして「兄弟と浦島」→「月の海の話をする伊達」→「松井に朝を連れてくる豊前」を連続して見せるところを挙げたいです。ここの伊達はデュエット曲「静かの海」を披露し、印象的なセリフで語り合うので、一度しか見れていない人でも覚えている人は多いんじゃないかなと思います。

・能面みたいな暗い、温度のない顔で海を見下ろす鶴丸に、大倶利伽羅は声を掛けます。大倶利伽羅に気づくと鶴丸すぐに笑顔を作って、相手の言葉をさえぎってまで「大丈夫、心配すんなって」とはぐらかそうとするでも大倶利伽羅はそんなことで引きません。心配だ、という言葉を使わない代わりに、三百年での石切丸の話を出して「お前は一人で抱え込みすぎだ」というのを言外に伝えようとします。

しかし鶴丸はそれを分かった上で「(石切丸は)心根の優しい男だからな」=俺はそうじゃないから大丈夫だ、と冷たく、平坦に返したわけですが、倶利伽羅はどんな気持ちになったんだろう。だってさっきのパラグラフで散々書いたけど、彼は鶴丸の優しさを知っていて、というかパライソは見れば見るほど鶴丸が優しくないわけも心がないわけもないな、と随所で感じさせられて、ここですごいやるせないというか、どうしようもなく悲しい気持ちになりました。鶴丸も苦しいから大倶利伽羅は彼を咎めたりしませんが、自分の大切な人をその人本人にけなされるのって、結構堪えると思う自分が上手いこと言ってやれない、逃がしてやることもできないと分かっているからなおさら。大切な人にはなるべく辛いことが起きなければいいと思うし、できるなら自分がそんなもの取り去って、穏やかに笑って過ごしてほしい、と思うのが人の心じゃないですかね。大倶利伽羅鶴丸って、お互いがお互いに対して「もっと自分自身を大切にしてくれよ」って思ってそう(とんだ不器用コンビじゃねーか)。刀剣男士として戦という使命から逃れられない彼らに勝手に心と体を与えて、政府も審神者(ミュ本丸の審神者だけでなく審神者全般)もいいご身分だなと憎らしくなった。いい景色と戦が合わないなと鶴丸は言ったけど、観ている私もこんなに穏やかできれいな場所なのになんでこんな悲しい思いを刀剣男士にさせてるんだろう……と苦しくなりました。

三百年の石切丸で全くおんなじ気持ちになって通うのが辛かった人間なので、なんかこの、審神者という存在無力すぎ問題は常に付きまとう命題のひとつだなと思ってます…。わかるんだけどさ。正義や大義のために誰かを傷つけ続けて平気な顔してていいのかって(多分これを忘れずに背負い続けることが審神者の責任なんだろうけど)悶々としてくる。フィクションなのにね。ゲームやってるせいで自分の本丸、て意識が分かるから自分ごととして捉えちゃうよ……。

デュエットに関しては、このふたりほんと~~~~~~~~~うに歌がうますぎて、私、結局ミュージカルである以上刀ミュでも歌唱力は何よりも重要だと考えているので、いつもこの曲は心が震えます。ミュのシリーズはどんどん歌で展開していく構成に変化しているから、歌の上手さや表現力がそのまま作品の完成度やメッセージを伝えられるかどうかに直結していく。二人とも初出演の三百年再演、あおさくの時点でうまい方でしたけど、さらに成長しててすごいな……と素直に感動してました。歌唱力=説得力の世界。声の相性もいいという

歌声もとても素敵ですが、歌詞もいい。鶴丸は一貫して月の方しか見ない(少なくとも東京公演はそう)一方、倶利伽羅は「なぜ噤む」と鶴丸に問いかけるように歌う。そして退屈を嫌い、人生退屈すぎちゃ心が先に死ぬ、と普段から言っている鶴丸が笑いながら「退屈な場所」と歌うくせにそこに行ってみたいなと言うんです。ここいつも泣きます。退屈な場所に行ってしまいたいと自棄になるほど、もう鶴丸の心はボロボロだったのか、それでも心配するなと虚勢を張ろうとするのか、と。

だからこそ鶴丸は、自分の非道とも取れる態度が演技だと全部わかってくれていた大倶利伽羅の言葉に、「自分自身を憎めるくらいでなきゃやってられない」と本音で返したんじゃないですか。マジで大倶利伽羅いてよかった。

あと、大倶利伽羅は行ってみたいなと鶴丸から同意を求められて「そうだな」と強い覚悟のこもった表情で返すんですが、2部のコーレスが浦島だった時、「みんなともいつか竜宮城行ってみたいね(意訳)」と言われて一人だけ「俺はいい、慣れあうつもりはない」と返すんですよね。

へえ~~~~~~~~~~~~~~~~~静かの海には一緒に行くのにね~~~~~~~~~~~~~~??????????????????

いつか行ってみたいなあ…に、「ああ、そうだな」ってしっかり答えたのにね~~~~~~~~~~??????????ふ~~~~ん……

と、厄介キモ・オタクになってしましました。一部と二部を比較すな。ほんとにキモイな……。(すみませんでした)

 

・海に向かって咆哮した時、大俱利伽羅がそばにいることを許したのも、鶴丸なりの成長だった気がします

強くなること、使命を果たすことだけを目標にひたむきに走り続けてきて、はじめて自分の弱さを誰かに見せること、誰かを自分の心の深くて柔らかい部分に立ち入らせること、それが出来たのでは。そういう姿を見せるのは誰でも怖いよね。なんせこの鶴丸審神者に一切本心見せなそうだからな。鶴丸がほんの少しだけでも自分の中の弱さを肯定できること、自虐じゃなくて、自責でもなくて、誤魔化さずにちゃんと真っ向からその苦しみを認められたことは大きな一歩だと思いたい。そしてその一歩を踏み出せた背景として、大倶利伽羅が理解者として過度な踏み込みはせず、でもちゃんと言葉と態度で示して支えたことは勿論、痛みを乗り越えるために一緒に苦しんでやるとのたまった豊前の存在というのがあると思ってます。でも豊前の話は豊前の記事でします。

 

鶴丸のセリフに込められたパライソの普遍的メッセージ

この話ここに入れたかったんですが、既に長すぎるので別の記事に分けて後で貼っておくことにしました。

 

終わりに

次はたぶん2部の記事を書きます。これも伊達の話ばっかだから本当はここに入れるつもりだったんだけど、この記事既に1万字超えてるから……。オタクくん自覚しなよ。

こんなクソ長記事辛抱強く読んでくれる方がいるのかよくわかりませんが、言葉にできてすっきりできたので書いてみてよかったです。もし読破して下さった方がいたらありがとうございました~!

*1:二十六聖人の処刑は有名な話ですが、三成本人は逮捕者を最小限に抑えようと超がんばって4000→24人まで減らした、秀吉から両耳と鼻を削ぐよう命令されていたものの自身の裁量で左耳たぶを切るのみにとどめた